『日本人の心』を描く
新人を待望

生きてきた息吹、勢い、情熱をぶつけて

1個10円のパンをかじりながら

「漫画家・アニメーター育成事業」の審査委員を務める成瀬國晴氏(76歳)が財団の助成、支援について語ってくれた。「支援を受ける幸せ、その意義を理解せんとあかん。いただいたお金は賞金ではない。明日のための糧となるもんやからお返しする義務がある。…それは、立派な漫画家、イラストレーターになることや」。実に小気味の良い大阪弁だ。

今の若者は恵まれ過ぎているのかもしれない。「何しろ羨ましいですよ。技術的には画材など道具もようなってるし、情報も多い。パソコン触ったら何ぼでも分かるわけやし、アナログ時代とはずいぶん違う」としみじみ語る。

「『日本人の心』を描いてほしいんや」と熱く語る成瀬審査委員

成瀬氏がこの世界に飛び込むきっかけとなったのは、中学時代に手塚治虫が出版した『新宝島』という雑誌を夢中になって模写したことからだという。高校時代、新聞に四コマ漫画を投稿、それが採用されて賞金1,000円をもらい、これがやみつきに。高校卒業後、ファッションドローイングの草分け的存在だった長沢節門下の明石正義と出会って、内弟子になる。しかし、とにかくお金がなかった。バス代を惜しみ、1個10円のパンをかじりながら生活していた。1958年には結核を患い、2年間の入院生活を余儀なくされた。「小休止やったけど、ベッドの上でもいろんなものを描いてました。それからまた(明石)先生の所へ戻って勉強するわけやけど、この時の勉強が後にプロ野球、大相撲などの作品づくりに大いに役立った」という。

成瀬氏の専売特許とも言えるクロッキー(速写画)の基本が養われた時期である。この素早く描画する「速描」は、3分、1分、最短では30秒ほどで仕上げるのだ。「自分自身と戦いながらやるんです。日に50枚描く。何しろ人の倍以上やらんと勝てないという意識でね。家に帰っても描いてた」。無我夢中で絵を描く気迫は、周りを圧倒していた。

1974年のある日、江戸時代の浮世絵師、東洲斎写楽のイメージが突然湧いて出てきた。「見立て写楽」といわれる、写楽の画風にタレントや俳優ら有名人の顔を入れていく手法だ。これが大阪で人気に火がつき、東京・銀座で初の個展を開くと、一気に大ブレイクした。帰阪してマスコミの寵児になる。

阪神タイガースの投手陣

第8回「漫画家・アニメーター育成事業」二次審査会 講評(2011年7月6日)

プロ野球各球団の取材(イラスト画)を新聞社から頼まれるなど、仕事は順風満帆。1985年、子ども時代から大ファンだった阪神タイガースから、スローガンのデザイン依頼がきた。「心を込めてデザインしたら、その年に日本一。それ以来、タイガースとは深い付き合い」という。

大きな事件の裁判を傍聴席から見て描く法廷内スケッチの仕事も舞い込んだ。ここではファッションで勉強した短時間で仕上げる、いわゆる速描の体験が奏効する。天神祭りの描写も得意だ。これらを「ドキュメンタリー・スケッチ」という新ジャンルとして確立させた。「僕の4本柱は大相撲、タイガース、上方落語、天神祭り。桂三枝師匠の文枝襲名披露に合わせて展覧会ができればと考えています」と張り切っている。

大相撲の横綱貴乃花

落語家のシリーズは大好評

成瀬氏は、時代と四つに組んで格闘しながら、個性の際立つ画風を確立してきた。そのファイトする姿勢は、成功を夢見る若者の参考になる。「ほかの人と同じことをしては駄目。個性、オリジナリティーを出していかんと。へたくそでもええから個性を持った子が出てきてほしい」と、期待を寄せている。

「財団の助成はできる限り続けていただいて、そのおかげでしっかりとした人間が育つことを望んでます。僕のキャリアは50年。時代の違いこそあれ、今の若い方たちには画風よりも人間として生きてきた息吹、勢い、情熱をぶつけてもらいたいし、『日本人の心』を描いてほしいんや」と、漫画家やアニメーター、イラストレーター
の卵たちに心温まる言葉を贈る。
(2012年2月7日取材)

成瀬國晴(76歳)
宝塚大学 講師
漫画家・イラストレーター