新天地で鍛え抜き、
ソチの星となれ

被災者のひとりとして、いただいた支援に演技で恩返し

前を向いて諦めずに最後までやり抜く

日本、いや世界のフィギュアスケート界の次世代を担う羽生結弦は、常にポジティブな考えを持っている。2008年度、14歳で財団の「スポーツ選手支援事業」の助成を受け、翌シーズンには内外のジュニアタイトルを総なめにするなど大躍進した。2010年度にはジュニア世界一に輝き、栄えある「上月スポーツ賞」を受賞した。そして2011~12年シーズン、ついにシニア大会で世界の3本の指に入るまでに成長。まだまだ伸びる17歳は2年後のソチオリンピックで頂点を目指している。

2011年の3月11日午後2時46分。羽生は普段通りに練習していた。その時、突然大きな衝撃が走り、リンクの氷が海のように波打つ。扉、天井からは不気味な音が響く。「ここにいては危ない。でも逃げ出せる状況ではなかった。体がこわばり、立つことさえできなかった」。

東日本大震災チャリティー演技会 神戸 『白鳥の湖』(2011年4月9日)

未曾有の大災害で、仙台市内の自宅は全壊、4日間の避難所生活を経験した。心の整理もできないまま、時は過ぎていく。恐怖に襲われた生々しい記憶が脳裏から離れない。「スケートどころじゃなかった。電気もなく、お風呂にも入れない。この先どうやって生活していけばいいのか…」。目の前が真っ暗になるほど、不安だらけだった。震災から10日後、「うちのリンクに来ないか?」と、温かい声を掛けてもらった。東神奈川(横浜市)まで行って氷の上に立ったが、「嬉しいという感情はなかった。辛く、苦しく、悔しい気持ちだった」と振り返る。

数カ月が経って、やっと少し心にゆとりが出てきた。スケートで自分自身の成長する姿を見てもらうことが、被災地に勇気や希望、そして笑顔を取り戻すきっかけになれば、と考えられるようになってきた。この前向きな姿勢が2011〜12年シーズンの成績に表れる。大震災から4カ月後にホームリンクが営業再開。9月のネーベルホルン杯(ドイツ)でシニアの国際大会初優勝を果たす。グランプリシリーズでは中国杯4位、続くロステレコム杯(ロシア)で初制覇を遂げた。グランプリファイナルは、あと一歩で表彰台に届かず4位。12月の全日本選手権で3位となり、2012年3月のフランス・ニースの世界選手権の代表になる。

初の世界の大舞台。極度の緊張もあってショートプログラムで7位と出遅れた。だが、フリーでは4回転ジャンプをはじめ、すべてのジャンプを成功させ、観衆を魅了して銅メダルを獲得、思わずガッツポーズも出た。技術要素点では優勝したパトリック・チャン(カナダ)らを上回る最高点をマーク。演技を終えると涙が頬を伝わった。「自分は被災地の人たちに支えられている。何かを伝えようとしたのに、こっちがいつの間にか力をもらっていた」と語る。

平均的なサラリーマン家庭に育つ。そのため、羽生がスケートを続けることは経済的にかなりの負担となる。リンクの貸し切り代、消耗品のスケート靴や衣装代、さらに帯同してくれる母親の遠征費用等々。中学時代に支援を受けた財団の助成金には「とっても助かりました」と頭を下げる。「上月スポーツ賞」の賞金もスケートの費用に当てた。「上月スポーツ賞の表彰式ではオリンピックのメダリストらと一緒で、何だか場違いな所に来てしまったかなと思った」という。

ISUグランプリシリーズ ロシア杯ショートプログラム『悲愴』 (2011年11月25日)

初優勝したISUグランプリシリーズ ロシア杯(2011年11月26日)

19歳で迎える2014年ソチオリンピックがターゲットだ。「夢にまで見たオリンピック大会ですから。でも、課題は多いんですよ」。4回転ジャンプの精度を上げ、ステップ、スピンなども高いレベルに持っていかなければメダルには届かない。そのために金メダリストのキムヨナ(韓国)を育てたカナダ人コーチのブライアン・オーサー氏に師事することを決断した。

負けず嫌いの性格は、羽生にとってすべてプラスにはたらく。「勉強でも何でも負けたくない」。東北高校でも学業成績は上位をキープ。両親の躾も厳しく、礼儀をわきまえ、頭の回転も鋭い。感受性の豊かさは、演技の表現力につながっている。

高校の先輩でもある金メダリストの荒川静香さんは復興支援に力を入れ、仙台のリンクの再開に尽力し、資金援助もした。「僕はまだまだ未熟だけど、荒川さんのように夢を与えられるような支援をできるようになりたいんです」。羽生はスケートの競技力を磨き、スケートは、羽生を少年から青年へと大きく育てている。
(2012年4月25日取材)

2010年度「上月スポーツ賞」表彰式 (2010年9月14日)

羽生結弦(17歳)
フィギュアスケート男子シングル
東北高等学校3年