上月スポーツ賞、
最多受賞回数の更新を

悔しかった北京五輪、必ずリベンジ

金メダルを獲って笑うために

東京都世田谷区北烏山、甲州街道沿いにある三井住友海上女子柔道部の世田谷道場。畳の上に立った中村美里の表情が引き締まる。凛とした中に世界女王の風格が漂う。

「上月スポーツ賞」の受賞回数は4度、過去最多である。「いつもありがたい賞をいただき、さらに上を目指そうと思いますし、余計に頑張らなければという気持ちです。そして感謝でいっぱいです」。

2008年北京オリンピックで銅メダル、09年と11年世界選手権で金メダルを獲得。この活躍の前、2007年度に上月スポーツ・教育財団は、有望選手として中村を「スポーツ選手支援事業」の支援対象者に選抜した。この支援が中村を大きく成長させ、後の世界女王に結びつくわけである。「困っていた時に助成金のおかげで道が広がり、能力向上にもつながって素晴らしい制度だと思います」と嬉しそうに話す。「トレーニングウエア、トレーニング器具など、有効に使わせてもらいました」。

小さい頃、地元八王子市の野球チームに女の子1人だけ加入。格闘技も好きになり、ある日友だちと観にいったところ、サンドバッグを蹴らせてもらい興味を覚えた。小学3年生で空手をやりたいと言い出すと、母美智代さんから「女の子ならキックは止めて」と一言。ピアノも習ったが、やはり体を動かすことが性に合っていた。「友だちのお父さんが警察官で、警察署で少年柔道をやっていることを聞いて、それを見に行ってこれだと思った」。

中村の本格的柔道デビューは親元を離れた神奈川県相模原市の相原中学2年生の時。全国中学校大会で優勝、直後のアジアジュニアも制し、この頃からオリンピックを意識しだしたという。その頃の女子柔道は谷亮子(旧姓田村)全盛時代。今でも中村は目標とする選手に谷の名前を挙げる。

一瞬の隙を突いて技をかける(2011年8月24日、2011年パリ世界柔道選手権大会)

最も印象に残る嬉しかった試合を挙げた。2007年、減量苦により階級を48kg級から52kg級に上げた最初の大会となった講道館杯。もう減量しなくてもいいという開放感もあったが、勝てるかどうか不安が募った。「迷いがあり、悩んだ末の優勝だったので一番嬉しかったです」と振り返る。そして、最も悔しかった思い出はやはり北京オリンピック。「金以外は皆同じと言ってしまった…」。自分の性格を「負けず嫌い」というだけあってよほど悔しかったのだろう、表彰台の上でも笑顔は最後まで見せなかった。

毎日4時間半の充実した練習メニューをこなす。このうち1時間はウエートトレーニングに割く。三井住友海上女子柔道部監督であり、現在の日本女子柔道界の地位を築き上げた柳澤久監督が、独自の研究により開発した10種類以上の筋トレマシン(名付けて『金取れマシン』)で、引き手の強さを養い、柔道の動きに合致した筋力を鍛える。たっぷり汗をかいた後、道場で3時間半の練習に移る。週3回は会社員として東京都千代田区神保町にある会社に出勤、午前中だけ働く。柔道だけでなく、社会人としても通用する人材育成を目指し、英会話やパソコンといった教養講座も受ける。これも柳澤監督の方針だ。

両手の指を見ると、22歳の女性らしさが消える。第一、二関節が異常に太い。これが柔道選手の勲章かもしれない。「相手の襟をつかんだら離さないために、いろいろな訓練をしてきた結果です」。握力も一般女性の平均20kgを大きく上回る50kg。

女子 52kg級で優勝 (2011年8月24日、2011年パリ世界柔道選手権大会)

柔道専用のオリジナル筋トレマシンで汗をかく

普通の女の子らしい一面もある。「お休みの日はショッピングにでかけたり、寮でケーキ作りもするんですよ」。

この世で一番尊敬しているのは「両親です」ときっぱり言い切った。自分を好きな道に進ませてもらい、やりたいことをやらせてもらった。北京オリンピックには家族が応援に駆けつけてくれた。「期待に応えられなかったので、今度こそ」の気持ちが強い。

「北京のリベンジ、金メダルだけしか頭にない」ほど、オリンピックには異常なほど闘志を燃やす。「とにかく集中です。これなくして試合には勝てない」と力を込める。けがをせず、スタミナをつけることに常に気を配っている。専属のトレーナーは置かず、体のケアはすべて自己管理に任される。
心技体とも中村は万全の状態で大舞台へ臨む。「上月スポーツ賞をもう一度狙う」と意気込む女王。活躍いかんでは、5度目の賞が舞い込んでくる。
(2012年2月27日取材)

2011年度「上月スポーツ賞」表彰式 (2011年9月13日)

中村美里(22歳)
柔道女子52kg級
三井住友海上女子柔道部所属